神の奴隷

「神の奴隷」
ヨハネによる福音書 第13章12~20節 

 主イエスが、十字架に御架かりになるまえに、弟子たちと共にされた最後の食卓の場面は、新約聖書に収められた四つの福音書のいずれにも記されていますが、「弟子の足を洗われた」記事は、ヨハネだけが伝えています。ヨハネの福音書記者にとっては、聖餐制定と共に、見逃してはならない出来事だったのでしょう。福音書記者が、主イエスが弟子たちの足を洗われたことに、何を見たのでしょうか。
 この物語は、教会学校の子供たちに話す機会が多いものの一つです。そして、皆さんもまた、次のように聴いたことがあると思います。
「主イエスは、私どもの救い主は、本当に身をかがめて、最も低いものとなってくださって、私どもを救われたのだ」
洗足の物語を読む度に思うのですが、主イエスの謙遜さ、主イエスが人々に仕える姿勢だけに、福音書記者は心を動かされたのだろうかと。というのは、「足を洗う」という仕事は、奴隷のする仕事です。当時は、歩いて行くことがほとんどだったので、家に帰ると、そのほこりまみれになった足を、奴隷が洗ったのです。主イエスは、「奴隷」になることを私どもにお手本として見せてくださったのです。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(一四~一五節)
あなた方の先生である私が、お手本を示したのであるから、あなた方も同じようにしなさいと、主イエスはおっしゃるのです。
 正直なところ、誰もが、「そんなことを言われても、私は、主イエスと同じようにはできない」と思うでしょう。誰でも、考えたことがあると思います。「主イエスは、神の子だから、何でもできる。イエスさまだからこそ、できる。でもわたしは、人間だ。イエスさまが教えられるようになんか、できっこない。」「ペトロたちは、最初に召された主の一番弟子だ。きっとイエスさまは、特別な何かを感じられたのだろう。だから、困難があっても、試練にあっても、立ち向かっていく強さがあったんだ」「あの人は信仰に篤く、だからこそ、この奉仕をする適格者だ。私は信仰の弱いものだから、そんなことはできない」云々。もし、特別に主に用いられている人のみが、教会を形作っていったなどと言うことがあったならば、地上の教会は、とうの昔に完全に姿を消していたのではないかと思うのです。
 聖書は、なんと伝えているでしょうか。主イエスが、十字架に死なれ、葬られて、死人の中から復活され、天にお昇りになって後、使徒たち、最初のキリスト者たちはの様子は、使徒言行録や、手紙から知ることができます。主の昇天後、キリスト者たちは大きな迫害を受けました。その時、迫害をもとのもせずに、戦ったキリスト者たちだけが生き残ったのではありません。殉教するものもありましたが、迫害するものを恐れて、地下の墓地で礼拝を捧げ続けた信徒もいたのです。それとなく、仲間の家に集まって集会を続けていた信徒もいたのです。皆さんの中にも、車に魚のマークを付けている人があるでしょう。ギリシア語で魚は「イクスース」その頭文字をとると、「イエス、キリスト、神の、子、救世主)」の頭文字になり、迫害の時代、キリスト者の間で隠れたシンボルとして用いられていました。隠れていたというのだから、迫害するものが迫ってくることに恐れを抱きながらの生活だったでしょう。それでも、彼らが信仰を捨てなかったのは、困難や試練に会うことよりも、主イエスから離れることが最も恐れるべき事だったからです。驚くことに、歴史的な大迫害が各地で、いろいろな時代にあったにもかかわらず、今では、徒歩でしか行くことのできないような場所にさえ、教会は建っているのです。地上の教会が存続し続けたのは、主によって集められた人々が、聖霊の助けを信じて、主イエスのために、毎日、毎日を歩み続けた、主の御名のために歩み続けたからでしょう。
 何よりも、私どもは、福音書記者がそのことをはっきりと記していることを知っているのです。主イエスに足を洗われた者たちは、どうだったでしょうか。主の十字架の死を目の当たりにして、絶望し、人々からの迫害を恐れ、主イエスが復活されたという知らせを聴いても、それを信じることができず、戸口に鍵までかけていた閉じこもっていた弟子たちのです。その弟子たちのところに、復活の主イエスは来てくださり、「わたしはある」ということをお示しくださったのです。
 わたしどもは、しばしば主イエスに訴えます。「主よ、あなたの後をついていくのは、難儀なことです。それは険しい道です。とても、あなたのように、人を励まし、神の言葉を伝えていくことなど、弱いわたしにはできません。」そう言っている私どもに、「その弱い足を、わたしが洗ったのだ。」と主イエスは、言ってくださるのです。
 ヨハネの福音書記者は、第一三章の一節に「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と記されている言葉を無視して、一三節以下を読むことはできないでしょう。主イエスの教えが、倫理的な、道徳的な、私ども人間の間だけで終わることではないからです。主イエスが、私どもを、愛し抜かれた。それは、主イエスをお遣わしになった父なる神が、私どもを愛し抜かれたからです。だからこそ、私どもも、神を愛し、神が愛される自分を愛し、神が愛される互いを愛するのです。主イエスは、神に仕える奴隷として、父なる神の愛されたものを愛する姿勢を見せてくださったからです。

自分の影を飛び越える

自分の影を飛び越える
ルカによる福音書 第1章30-37節

鎖に繋がれていてもあなたの使徒は自由な君主であり続ける。
我らはしかし、社会の紳士淑女たち同様
縛られ、繋がれている。
さまざまな虜囚の立場からあなたは我らを解放する。
我らがあなたのため、またあなたの言葉のために自由となるように。
あなたは、我らが自分の影を飛び越えることを教え
別なものに成り変わるよう、勇気づける。
自由にしてください、そのように。

11月に教文館から刊行されたばかりの「祈り-パウロとカルヴァンと共に」R.ボーレン著、川中子義勝訳、146頁に掲載されている祈りの言葉です。スイスの神学者ボーレン先生は、この本を「祈りの修練のために」書かれました。そして、ボーレン先生が、詩人としても交友のあった川中子氏を翻訳者に指名してのものだそうですが、まさに詩編のように、声に出して読む祈りの本です。是非、手元に置いてほしい一冊です。
 12月、クリスマスシーズンに入りました。この原稿を書いているときにも、テレビのニュースでは、横浜で行われているクリスマスマーケットの様子を、「本場のクリスマスの雰囲気が味わえる」と報道しています。私どもが伝えたいのは、「本場」のクリスマスではなく「本物の」クリスマスです。
 聖書が伝えるクリスマスの物語は、ボーレン先生の祈りにあるごとく、この世のあらゆるしがらみ、私どもを襲う苦難や悲しみ、そそのかす欲望からの解放を告げています。救い主が家畜小屋で産声を上げる前から、この救い主のために、神のお召しを受けて、一人の乙女が、その夫となる男が、天使からのお告げを聞きました。また、東方の博士たちが、羊飼いたちが、年老いた司祭の夫婦のところにも、天使のお告げを聴きました。それらの人々は、皆、「この知らせは何のとこだろう」と驚き、恐れをもってきいたのです。天使は、救い主が来られる事を告げました。人々は、自分のところを訪れた良い知らせのゆえに、立ち上がり歩み始めました。
 東方の博士たちは、星に導かれて、遠いところまで、新しく王として生まれた方を拝するために旅をしました。羊飼いたちは、天使の告げた出来事をこの目で見ようと、走り出しました。マリアもヨセフも天使の告げた言葉に、自分を献げました。
みんな、「自分の影を飛び越えることを教え」られ、「別なものになりかわるように、勇気づけ」られた人々でした。クリスマスの出来事は、そのように主の言葉のために、私どもを変え、自由にするのです。
「神にできないことは何一つない。」(37節)
この天使の言葉を、私どもどれだけ深く、聴き取っているだろうか。どれだけ重く、受け止めているだろうか。どれだけ真剣に、聴き、信じているだろうか。受胎告知の記事を読む度に、問われる思いがします。問われ、怖じ惑っている私どもに、それでも天使ははっきりと告げるのです。
「神にできないことは何一つない」
この言葉のゆえに、私どもも、教えられたように、自分の影を飛び越えることができるでしょう。別なものに変わるように、主ご自身から勇気づけられるでしょう。そして、全く自由にされたものとして、日ごとにキリストのミサ(クリスマス)を献げるものにされるのです。

なぜ、徴税人は義とされたのか

なぜ、徴税人は義とされたのか
ルカによる福音書 第18章9-14節

 福音書の中には、主イエスが語られたたとえ話が収められています。どれも、おもしろいのですが、「なるほど」と思うものもあれば、「なぜ、そうなるのかなぁ」と不思議に思うものもあります。ルカによる福音書第18章に書かれているファリサイ派の人と徴税人の話はどうでしょうか。
 14節に、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と、締めくくられているので、私どもは道徳的な意味で読むことが多いと思います。
 だが、どうしてもひっかかるのは、話の展開です。主イエスは、淡々とファリサイ派の人と徴税人の祈りを並べて語りました。ファリサイ派の言い分は、もっともなことで、彼の律法の守り方は、完璧なものでした。一方の徴税人が、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、神の憐れみを請う姿勢は、当然のことだとも言えるでしょう。そして、主イエスは、何の説明もなしに「義とされて家に帰ったのは」と結論を言われたのです。ファリサイ派の人のどこが、まずかったのでしょうか。徴税人のどこに、義とされる根拠があったのでしょうか。
 私どもには、聖書を読むときの共通の癖があると思います。登場人物のことだけを考えて読んでしまう癖です。隠れた登場人物がなかなか見えないという癖があると思うのです。どの話の中にも、主なる神が関わりを持っていることを、私どもは忘れてはいないでしょうか。
 ルカ18章9節以下の話も、主なる神をその中に入れて読んでみると、この主の譬え話は、どう響くでしょうか。確かに、ファリサイ派の人の「この徴税人のような者でもないことを感謝します」という見下した言い方は、気になるところです。「私たちは、傲慢になってはいけない。いつも謙遜に振る舞わないと、人にも、神にも、嫌われてしまう。気をつけよう」と思うのも、無理からぬところです。
 では、ここに主なる神がいらっしゃること事を考えると、どうなるか。人の目に、高いか低いかは、人間同士の間のことであって、神の御前では、意味を持たなくなるのではないでしょうか。ファリサイ派の人が、うぬぼれているものとして語られているのは、彼が、神を必要とはしていないからです。主イエスが示される大切なことは、主なる神の前にひれ伏すこと-徴税人の祈りの姿-なのです。
 私ども人間は、すべての人が神の作品、被造物です。神が良いものに造ってくださり、祝福し養ってくださるものであったのに、その神の御前から離れていってしまいました。それが、私どもの根っこにある罪の問題なのです。罪人である私どもに、主は、神の御前に立ち返り、互いに赦し合い、執り成しあって生きることをお求めになりました。神の御前で身を低くするとは、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する者の姿勢なのです。
 教会は、古い時代から、カトリック教会も、プロテスタント教会も、礼拝式の中で「主よ、憐れんでください(キリエ・エレイソン)」を祈り続けてきました。武山教会の礼拝式は、リタージを用いない礼拝式なので、気づかれないかも知れませんが、聖書朗読の後の祈祷の中に、罪の悔い改めの祈りがなされています。礼拝の度ごとに、集まった信徒が、「主よ、罪人のわたしを憐れんでください」と祈り続けてきたのは、罪人である私どもは、主の憐れみによって救われ、命を与えられなければ、神を愛することも、自分を愛することも、そして隣人を愛する事もできないないからです。主なる神に対して、罪の赦しと憐れみを願い求めるとこが、礼拝においても、日常の信仰生活にとっても、大切なことだからです。教会は、このたとえ話が語る、最も重要な部分を、主日の礼拝ごとに、実践していたと言っても良いのではないでしょうか。
 雨宮慧司祭は、この箇所について、詩篇第51編18-19節の言葉をあわせて読むように勧めています。
もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。/しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
絶望の中にあるものも、喜びの中にあるものも、主の憐れみを請い求めるものを、神は退けることなく、受け入れてくださるのです。憐れみを請うものの祈りに、神は耳を傾けてくださるのです。
(教会便り2017年10月)

わたしは救いを見た

「わたしは救いを見た」
ルカによる福音書第2章22-35節

 ここに登場するシメオンは、老人の姿で描かれることの多い人です。福音書
記者は、彼の年齢については何も記していないのですが、宗教画家たちが白い
髭を蓄えた老人として描くのは、
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいま
す。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(29-30節)
の言葉から、長い人生を歩んできた老人であろうと連想されたからでしょう。
主から遣わすキリストに会うまで、あなたは決して死なないとのお告げを受け
ていたシメオンですが、やっと彼がそのキリストに出会ったことは、何よりも
シメオンにとって驚きの出来事であったとも思うのです。
 その日、シメオンは、「霊」に導かれて神殿の境内に入っていきました。そ
の日、シメオンに対して、特別のお召しがあったのがも知れません。神殿に入
った調度その時に、主イエスを抱いたヨセフとマリアが来たのです。
「あの幼子だ。あの幼子が、主がイスラエルのために、イスラエルのためばか
りでなく、全世界の救いのためにお遣わしになったキリストである」
シメオンに耳に、そのような主の言葉が聞こえたのかも知れません。
 なんと言うことでしょうか。主が指し示してくださったのは、布にくるまれ
た小さな赤ん坊ではありませんか。大人の手によって世話をされなければ、何
もできない幼子です。人間の目で見れば、海のものとも山のものともつかない
ような幼子です。もちろん、この子が成長し、大人になったときに、世の救い
主になるのだ、と理解することもできるでしょう。でも、それならば成長した
キリストとシメオンが出会った方が、キリストに対する期待は、ずっと確かな
ものになったのではないかとも考えてしまうのです。福音書記者は、シメオン
がそんな憶測をしたかどうかなどと言うことは、記しませんでした。ただ、シ
メオンが示された幼子を抱き、神をたたえたことのみを記したのです。
 時が来れば、神の言葉は現実のものとなり、そして、神にできないことは何
一つ無い。キリストに会うまでは死なないという主の言葉通りに、わたしは
今、生きて救い主を抱いている。神の言葉通りに、この幼子は、イスラエルの
救いのために、また世の救いのために遣わされたキリストだ。幼子を抱いたと
きに、シメオンは疑うのではなく、信じることしかできなかったのだと思うの
です。
 この瞬間に、シメオンの中にあった希望は、淡い希望などではなく、今まで
以上に、確かな希望となったのではないでしょうか。
 二九節から始まる「シメオンの賛歌」と呼ばれる部分は、古くから、教会の
中で夕べの祈りの時に歌われる賛美歌となりました。電気がつくようになり、
夜でも明るい部屋で過ごせるようになった現代でも、夜を過ごすのに不安を覚
えることがあります。私どもは、一人でいるときや、何かの重荷を負って一人
で夜を過ごさなければならないときなど、眠りにつくことさえ怖くなるときが
あると思います。明日の朝、目覚めることができるのだろうか。明るい朝日を
見ることができるのだろうかと、不安になる夜もあると思います。そのような
重荷、不安を取り去って、主の平安の内に、休ませてください、との祈りがこ
の歌に込められました。おそらく、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこ
の僕を安らかに去らせてくださいます。」の言葉から、夜、寝ている内に、こ
の地上に命が終わりを告げても、僕は安らかに地上を去ることができますよう
に、平安得ることができますようにとの祈りであったのでしょう。
 今、私どもは、シメオン以上に、主なる神の約束に確かな希望を抱くことが
できると思うのです。なぜならば、キリストによって、本当に、救いを見せら
れたからです。シメオンに抱かれたあの幼子、主イエス・キリストが、私ども
のために、命を勝ち取ってくださったことを確かに知らされているからです。
地上の命を終えて、眠りについても、ずっと暗い夜の中を眠り続けるのではな
く、復活の朝に、あの主イエス・キリストによって引き起こされる確かな希望
を知らされているからです。 
教会学校夏期学校開会礼拝より

わたしの魂は主を待ち望みます

わたしの魂は主を待ち望みます
詩編 第130編6節

 アドヴェントの季節は、主イエスが来てくださるのを待ち望む季節だと言われています。詩編第130編6節が、今月の御言葉として選ばれているのも、そのためでしょう。ただ、詩編第130編全体を見てみると、クリスマスを迎える楽しい雰囲気とは、いささか違うことに気がつくのです。

【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 (1~2節)

この詩は、嘆きの歌です。自らの罪の深さに気づいている詩人は、その重さに苦しんでいるのです。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。(3節)

完全なる正しさである神ご自身が、その罪を心にとめるならば、罪人であるわたしは、どうして生きていくことが出来るだろうかと嘆くのです。しかし、同時に、この主なる神が、唯一罪の赦しを宣言されるお方であることも詩人は知っています。だからこそ、この神にたいして、赦しを願い、唯一の希望を見いだしているとも言えるのです。

続きを読む

posted by 羊 at 20:00詩編

慈しみが結ぶ実

慈しみが結ぶ実
コリントの信徒への手紙への手紙2 第9章6-15節

 教会の行事予定には、「収穫感謝」と書かれた項目があります。日本では、アメリカとの関わりが強いからでしょうか収穫感謝といえば、アメリカの祝日「サンクスギビングディ」―11月第4木曜日に近い日曜日に、礼拝を行っているところが多いようです。一方カナダは、10月第2月曜日が収穫感謝の祝日に定められていますし、ドイツでは、10月第1主日に、収穫感謝の礼拝を行っています。ドイツにおける収穫感謝祭は、古い時代に教会とは関係ないところで持ち込まれ、後にそれが教会の行事とつながっていったという背景もあります。緯度の高いカナダやドイツなとでは、11月の下旬は、冬が始まり、悪天が続く時期となります。そのため季候の最もよい、つまり、本当に収穫の時期である10月に行うのでしょう。
 さて、そうなると、私どもが行事暦に則って毎年11月に献げている「収穫感謝」の礼拝は、どういう意味を持つのでしょうか。武山教会では、この日は、教会学校との合同礼拝と定めていますが、本来、教会の礼拝は、年齢や性別、国籍などに関係なく、神の御前に礼拝を献げようとする人々が集められるところです。教会学校の礼拝を指して、「子どもの礼拝」と呼ぶのは良しとしても、主日礼拝を指して「大人の礼拝」と呼ぶのは、どうなのだろうか。私どもの礼拝に対する姿勢が問われるところでしょう。そこで、「収穫感謝」が、子供たちと行う単なるイヴェントではなく、真の礼拝となるために、備えをしたいと願っています。
 今年、ドイツで多くの教会が使用している聖書日課によれば、収穫感謝の礼拝で説教されるテキストは、コリントの信徒への手紙2第9章の御言葉です。これは、エルサレムにいる信徒のために献金を促す内容になっています。惜しむことなく、献げるものは、多くの収穫を得るのだ、ということを、パウロは、農夫が種を蒔き、収穫することにたとえて語っています。

続きを読む

私たちの助け手

「私たちの助け手」
ローマの信徒への手紙 第8章26-30節

 誰でもが、子どもの頃に「大人になったら何になる」とたずねられたことがあると思います。「お花屋さんになる」「新幹線の運転手」「幼稚園の先生」「飛行機のパイロット」「正義の味方」などなど。他愛のないものまで登場しますが、ほほえましいものです。人それぞれに、小さい時の夢が実現した方もあれば、思いもかけなかった仕事に就いた方もあるでしょう。しかし、どのような職業であっても、たった一人で成り立つものは無いと思うのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2・8)と、主なる神が言われたとおりです。私どもは、誰でも、誰かとかかわって生きています。誰かとの関わりの中で、仕事も果たされていくと言ってもいいでしょう。「家庭」というのは、社会を構成していく最小単位の共同体だと言われますが、まさに、家庭の中でも、お互いの関わりは大切になってくると思うのです。その時に、(特に、小さな子供たちにも)覚えてほしいのは、「同様に、『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8・26)です。
 誰かと共に生きるときに、必ず起きることは、共に生きているものの重荷を負うことです。小さな子どもが、火のついたように泣いているとき、どうするでしょうか。先ず、その子どもの傍らにいって、そばに屈むでしょう。転んでいたいのだと分かっていたら「痛いんだね」と声をかけるでしょう。何かにおびえている様子だったら、抱きしめて「怖かったんだね。お母さんがきたから大丈夫だよ」と声をかけるでしょう。相手が小さな子どもであっても、そうして負っている重荷―痛みや、不安、悲しみなど―を共に担っているのではないでしょうか。

続きを読む

わたしはがあなたたちの神、主である

「わたしがあなたたちの神、主である」
出エジプト記 第16章


神の御手によって、エジプトから導き出された神の民は、葦の海を渡り、対岸の荒れ野を歩き始めました。しかし、荒れ野に入るとすぐに不平を言い出します。エジプトでは肉鍋を囲んでいたのに、ここには食べ物がない。ここで飢え死にするよりは、エジプトで主の手にかかって死んだ方がましだ、と。しかし、主なる神は、この民にうずらとパン(マナ)をお与えになった、という話は、聖書のあちこちにも引用されている、大きな出来事でした。
 改めて、この箇所を読んでみると、興味深いことを気づかされます。まず、この民が「不平をのべ」それを「神が聞いていらっしゃる」と言うこと。しかも、民は、不平不満を神に言っているとは思っていないのです。モーセとアロンが、私たちをエジプトから、こんなひどい荒れ野に連れ出したんだ。エジプトにいた方が良かったのに、というのです。神の民は、エジプトで起こったこと、何よりも葦の海で目の当たりにした、神がエジプト軍と戦い、自分たちを守り導いたことを忘れてしまったのでしょうか。目の前に迫ってくる「飢え」に対して、目に見えない神のことなど、吹っ飛んでしまったのでしょうか。

続きを読む

復活する

ヨハネによる福音書 第20章1-18節
「復活する」

 ヨハネによる福音書の記事から、まさに、復活の日の朝に何が起きたか、その出来事を同じように復活を祝う朝に聞こうとしています。主イエスの復活の記事は、いろいろな人々の目撃証言から始まっています。
 先ず、墓に行った婦人たちが見つけたのは、すでに主イエスの遺体がそこにはない空の墓でした。主の御遺体がないと言うことは、主の遺体を誰かが運び去ったのだ、と考えざるを得なかったことだと思います。地上を歩かれていた主イエス御自身が「わたしは、三日の後に復活する」と繰り返し語られていたとしても、また、ヨハネによる福音書では、この直前に、ラザロをよみがえらせる記事がありますが、それを目撃した人が確かにいたにもかかわらず、はやり、「復活」と言うことは、誰もが想定していなかったことだったのです。ヨハネによる福音書では、墓にいちばん最初に行ったマグダラのマリアも、主イエスの遺体を誰かが持っていったとしか考えることができませんでした。ですから、慌てて、シモン・ペトロの所に走っていって、「あのイエスさまの、主のご遺体が、墓から取り去られました。どこにおかれているのか、私たちには分かりません。」としか、言うことができなかったのです。ここらか、最初に墓に赴いた人たちが、復活の主ではなく、主イエスのご遺体を捜していたのだ、主のご遺体を何とか見つけようとした事を知らされます。

続きを読む

あなたの口と共にある

あなたの口と共にある
出エジプト記 第4
章1-18

 出エジプト記の記事を読むと、映画の「十戒」を思い起こす方は多いと思います。それだけに、旧約聖書の中でも、比較的、親しみを持って読むことができるでしょう。そこで、是非、丁寧に読んでみてほしいと思います。現在、聖書輪読会でも、毎週一章ずつ読み進めていますが、たくさんの発見、気付きを与えられています。
 出エジプト記第四章は、主なる神の召しを受けて、イスラエルの人々を導き出すために、再びエジプトへと送り出される様子が記されています。モーセと言えば、イスラエルのエジプトから導き出したものとして、記憶されていますが、その召命の様子は、何とも頼りないものでした。
 神の命によって送り出されるのですが、モーセはそれをことごとく拒否するのです。自分はそんな能力はない、力はない。イスラエルの同胞も、私のことを疑っている。誰も私の言葉などに耳を傾けるものはいないだろう、と。主なる神は、モーセにさまざまなしるしを見せる力を与えて送りだそうとしますが、それでもなお、モーセは拒否するのです。

「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」(13)

ついに、神は怒りを発して、助け手としてアロンを共に使わすことをもお示しになったのです。神の怒りに触れれば、死んでしまうのに、神はモーセを死なせずに、神の名のために仕えるものへと変えてくださったのです。
 旧約聖書の中には、神によって召し出されていく預言者が何人も出てきます。素直に神の召しに応じるものもいれば、その召しをひたすらに断って神から逃げるものもいます。しかし、おもしろいことに、神の召しを断っても、主なる神はその御心を変えることはなさいません。そして、必ず、その使命を果たす力と、助け手をお遣わしになるのです。
 使徒言行録に、生まれて間もない教会の歩みを見ることができます。その中でも、第四章に記されている祈りは、私どもの祈りとすべき祈りであると思います。

「主よ、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(使徒言行録第4章29-31節)

これは、美しい門において、ペトロとヨハネが足の不自由な人を癒したことから、騒動が持ち上がり取り調べを受けたのですが、しかし、ペトロが、はっきりと主イエスの名によるものであることを証した様子を、信徒たちが聞いて、神を賛美しながら祈った言葉です。驚くことに、信徒たちは、大胆にみ言葉を語ることばかりか、ますます、主イエスの名によって業をも行われるようにと祈るのです。これは、神の恵を確信してのことであって、どのような結果にしても、必ず神が共にいてくださる、聖霊が共に働いてくださることを確かなこことする祈りでしょう。
 旧約の時代に比べて、なんと大胆な求めだろうと、びっくりします。その大胆な求めをすることを可能にしたのは、主イエスが、私どもと神との間にいてくださるからに他ならないのです。「あなたの口と共にある、世の終わりまで、あなたと共にいる」との約束は、主イエスによって、ますます、確かなものとなったのです。
 現代では、日本においても、また、世界においても、伝道の不振が叫ばれていますが、ともすると、私どもは、旧約の預言者たちが召されたことも、初代の教会の信徒たちが大胆に神の力と恵みを祈り求めたことも、過去のことにしてしまってはいないでしょうか。決して過去のことではないのです。今、この時、あなたの口と共に、神はいてくださる。あなたの手の業を、神の手の業としてくださるのは、本当に、確かなことなのです。
(教会便り2016年2月)