最も大切のこと

「最も大切なこと」
コリントの信徒への手紙一 第15章1~11節

 イソップ物語の中に、「三本の斧」があります。どこかで聞いた、あるいはどこかで子どもに語ったことが一度はある、と思う話です。
 ある所に木こりがいた。ある日、木こりが木を切っていたとき、手を滑らせて、斧を湖に落としてしまった。すると湖の中から女神が現れて、「あなたの落としたのは、この金の斧か、銀の斧か、それとも鉄の斧か」と問うた。木こりは、「鉄の斧です」と答えた。女神は、木こりの正直な答に感心し、金の斧も、銀の斧も褒美にやった。人間、正直に生きていれば、幸福を手に入れることができる、めでたし、めでたし。
 そこで問題です。「木こりは、何故、鉄の斧を選んだのでしょうか。」もちろん、良く知られているとおりに、「木こりが正直者だったから、自分のものである鉄の斧を選んだ」と考えられます。金の斧、銀の斧に目がくらまなかったのは偉い、と賞賛する人もいるでしょう。ちょっと視点を変えてみましょう。
 もし、木こりが、金の斧を選んでいたとしたら…。金という金属は柔らかく、細工はしやすいのですが、木を切るには適当な金属でないことは明かです。銀の斧も同じでしょう。いや、それならば、売ってしまえば、多額のお金を手に入れることができる。額に汗して、木を切る生活をやめて、遊んで暮らすことができるではないかとも思えます。でも、木こりはそれを選ばなかったのです。木こりは、木こりであることを誇りに思っていたかもしれません。楽に暮らすことを選んだのではなく、木を切り、額に汗して木を運び、そのようにして生業を稼ぐ道を選んだのです。そのためには、木を切り倒せる鉄の斧が必要不可欠でした。木こりは女神に問われたときに、おそらく躊躇なく「鉄の斧です」と答えたのは、そのためでしょう。木こりにとっては、鉄の斧こそが、最も大切なものだったのです。これは、私個人の感想です。だが、私どもにとって「最も大切なもの」は、金や銀とは比較にならないほど、値高いものであることは確かです。
 パウロにとっては、「最も大切なこと」、世の人々にとっても「最も大切なもの」は、主イエスの福音でした。今までも、何度も語ってきた福音を、「ここでもう一度知らせます。」と記しました。その福音は、三節以下に書かれていますが、主イエス・キリストの十字架と復活です。しかも、パウロは、この福音が、ただの建前や気休めではなく、「あなたが受け入れ、生活の拠り所としている福音」であると言っているのです。
「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(2節)
パウロは、このコリントの信徒への手紙の冒頭で、次のように記しています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(第1章18節)
パウロは、この福音は、自分だけにとどまることではなく、世のすべての人々にとっても同じく、手放してはならない福音である、と人々に語っているのです。
 使徒達、パウロたちの歩みを見ていると、不思議に思うことがあります。何故ならば、この世的に見れば、「これで本当に幸せなのか」と思うことが多いからです。パウロ自身が語っているように、迫害に遭いましたし、見世物にされたこともあるし、石を投げられて死にそうになったこと、乗っていた船が遭難したこともありました。むしろ、律法学者のままであった方が、この世的には、何の労苦もなかったかもしれません。
 しかし、パウロは、キリストに召されたことを喜びとする道を取りました。そしてはっきりと告白するのです。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(10節)

愛の言葉って、何?

「愛のことばって、何?」
コリントの信徒への手紙一 第13章4~13節

 武山教会の教会学校は、全国連合長老会が出している「カテキズム教案」にしたがって、毎主日ごとの礼拝を献げています。夏休みには、特別カリキュラムが組まれていて、連合長老会が主催する、中学・高校生修養会は、特別カリキュラムのテーマで行われています。武山教会の教会学校も、夏は、この特別カリキュラムにしたがって、主日ごとの御言葉を聞いています。
 さて、今年のテーマは「聖書ー愛の言葉」です。「聖書は神様から私たちに人間に対する愛の言葉である」(カテキズム教案二五号八一頁)と書かれていました。確かに、聖書は神様から私どもに与えられた恵みの言葉です。「聖書は神様からのラヴレターだ」と言うことも、どこかで聞いた事があるでしょう。愛の手紙は、相手のことを思って読む。だから、言葉にはならない思いも、相手をも思いながら読み取る。聖書も同じだ。神さまのみこころを思いながら読まないと、ただの難解な面白くないものになってしまう。確かにそうなのです。
 でも、なんかしっくりこないのです。どんなに愛の手紙を書いても、読んでも、相手に伝わらないことがあります。手紙を読んでいて、いらいらしてくることもある。気持ちがすれ違っている。相手は、私のことをちっとも分かっていない。すると、私たちは、「もういやだ」と手紙をびりびりに破いて捨ててしまうことさえある。神さまの言葉でそんなことがあれば、大変なことになります。でも、人間は、それをしてしまった歴史があります。旧約聖書の預言書を読んでみると、神の言葉を預かった預言者は、王様の耳に痛いことも、伝えました。神様の目から見て、間違った道に進めば、神の民は滅んでしまうからです。でも、王様は、耳に痛い言葉を聞きたくなかったので、心地よい言葉を語る宮廷預言者ばかりをそばに置いてしまったのです。私たちもまた、聖書を読むときに、「ここはいいと思うけど、この言葉は聞きたくない」と選り好みしていることはないでしょうか。これでは、旧約聖書の中に出てくる王様達と、同じになってしまいます。どうしたら、私たちには「愛の言葉」として、神さまの言葉を聞くことができるでしょうか。
 私たちが手紙や本を読むときに、私たちの体験したこと、学んだこと、過去の記憶などを土台にして読んでいます。何も知らなければ、私たちは、私たちの中にある「愛」を土台にして、神の言葉を聞いているのではないか。「神の愛」は私たち、人間の内にあるものでしょうか。いいえ。「神の愛」は、神様の側から、飛び込んできた「愛」です。
 「神の愛」については、パウロがコリントの信徒への手紙一の中に記しています。 
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。(四~八節)
この箇所で、次のような感想を良く聞きます。「こんな愛は、存在するのだろうか。私には、このように人を愛することなどできないのではないか」。パウロがここで語っているのは、私ども、人間の愛ではありません。「神の愛」です。私どもが忍耐強くなくても、神の愛は、忍耐強いのです。私どもが情け深くなくても、神の愛は、情け深いのです。私どもの愛は、すぐに嫉妬に変わりますが、神の愛は妬まないのです。私どもは、すぐに自慢し、高ぶりますが、神の愛は、それをしない。これは、自分の愛情なのだと思えば、礼を失することも、いらだつことも、自分の愛を理解しない相手を恨むことも、私どもはしてしまうのですが、神の愛は、他のどのことよりも、私どもを闇から取り戻すことに熱心でありながら、それらをしないのです。私どもの愛は、限界があります。疑いを起こします。失望することがあり、滅んでしまうこともあるのです。しかし、神の愛は、すべてのことを忍び、信じ、望み、決して滅びないのです。
 先に記したように、「神の愛」は、私ども人間の内にはありません。神からいただくしか、手に入れる方法はないのです。だからこそ、神様は、私どもを救いへと導いてくださっているのではないでしょうか。聖書が、ただの「世界のベストセラー」と呼ばれる書物ではなく、私どもにとって「神の愛の言葉」として聴くことが出来るのは、この書物を、神の愛のもとで読むときではないでしょうか。神の救いを信じて、聞くときではないでしょうか。
夏期学校開会説教

主よ、私の祈りを聞いてください

主よ、私の祈りを聞いてください
詩編第102編

 私どもを襲う苦難、試練は、どこから来るのか。人間は、何故、不幸に見舞われるのか。
この疑問は、誰もが、生涯の内で何度でも問われるものであると思います。病院に勤務していたときにも、出会う患者さんの多くがつぶやかれました。
「何故、こんな目に遭わなければならないのですか。私は、何も悪いことはしていないのに。」
私どもが被る不都合、苦難、不幸は、どこかに原因がある。原因を突き止めれば、それに対処する方法も見つかるのではないか。そう考えるからかもしれません。ただ、残念なことにその原因の突き止められない苦難もたくさんあるのです。そして、「神さまは、何をやっているのだ。何故、私を不幸に陥れるのだ。救ってくださらならいのだ」と問うてみたり、「これは私の不信仰が招いた結果だ」とあきらめてしまうことが多いと思います。 聖書は、このことをどう扱っているだろうか。私どもがすぐに思い起こすのは、神に逆らったものが、神から裁きを受けていることです。あるいは、闇の力、悪の力の虜になってしまって、苦難の中に置かれている、という姿です。今、自分が置かれているのは、どちらなのだろうか、と考えても、私ども、人間の頭では、その違いすら、悟ることができません。事実、思い悩んでしまっているときに、自分自身を省みると、原因も突き止められないような、どうしようも無いことをあれこれと考え込んでしまっている姿に、気がつくのではないでしょうか。それでは、やはり、あれこれ考えるのは無駄だから、あきらめるしかない、ということになるのでしょうか。
 聖書が教えているのは、不幸の原因を突き止めることでも、あきらめてしまうことでもなくて、ひたすら、神に憐れみと救いを祈り求めることなのです。困難の中にある人々が、主イエスに何を願って救われたのか。詩編の中で、苦難の中にある詩人が、神に対して何を祈り求めているのかをよく読めば、それははっきりするでしょう。
 詩編第102編の前書きには、
祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。
とあるように、苦難の中にあるものが、神の前に注ぎ出す祈りの言葉です。主なる神に対して、ひたすらに憐れみと慈しみを請う祈りの言葉と、詩人の苦しい現状の嘆きの言葉が口語に現れます。その中でも、私どもの心を引くのは、16~18節の言葉です。
 
国々は主の御名を恐れ 地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。
主はまことにシオンを再建し 栄光のうちに顕現されます。
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。
詩人は、自分を「すべてを喪失したもの」と呼んでいますが、その前を呼んでいただければ分かるように、自分の持ち物ばかりでなく、体も、魂も、命さえも失うような絶望の中に置かれているのです。何かも、失ってしまったようなときに、詩人は、唯一、失われないものを見いだすのです。それは、主なる神に対する「祈り」なのです。
 絶望の中にあって、祈りの言葉すら出てこない。神を呼ぶうめきのようなものしかでてこない。それでも、そのうめきを、神は聞いてくださる。貧しいものの祈りのことばとして聴いてくださるのです。
 「祈っていれば何とかなる。そんな簡単なことならば、誰も苦労はしないでしょ」という祈りに対する批判の言葉を、私たちは、耳にします。祈っていても、私どもを取り巻く現状は、少しも変化しないではないか、と批判されます。神の現実が見えない人々には、そう言うほかないのでしょう。しかし、私どもは知っている、胸をはって、証しすることができるのです。
 私どもから、祈りの言葉を取り去ることのできるものは、何もいない。私どもが祈る力を失ったとしても、信仰の仲間たちが、そして、救い主、主イエスは、黙ってはいらっしゃらない。だから、この世の現実が、少しも変わっていないように見えても、私どもは歩み続けるのだ、と。
posted by 羊 at 20:00詩編

神の奴隷

「神の奴隷」
ヨハネによる福音書 第13章12~20節 

 主イエスが、十字架に御架かりになるまえに、弟子たちと共にされた最後の食卓の場面は、新約聖書に収められた四つの福音書のいずれにも記されていますが、「弟子の足を洗われた」記事は、ヨハネだけが伝えています。ヨハネの福音書記者にとっては、聖餐制定と共に、見逃してはならない出来事だったのでしょう。福音書記者が、主イエスが弟子たちの足を洗われたことに、何を見たのでしょうか。
 この物語は、教会学校の子供たちに話す機会が多いものの一つです。そして、皆さんもまた、次のように聴いたことがあると思います。
「主イエスは、私どもの救い主は、本当に身をかがめて、最も低いものとなってくださって、私どもを救われたのだ」
洗足の物語を読む度に思うのですが、主イエスの謙遜さ、主イエスが人々に仕える姿勢だけに、福音書記者は心を動かされたのだろうかと。というのは、「足を洗う」という仕事は、奴隷のする仕事です。当時は、歩いて行くことがほとんどだったので、家に帰ると、そのほこりまみれになった足を、奴隷が洗ったのです。主イエスは、「奴隷」になることを私どもにお手本として見せてくださったのです。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(一四~一五節)
あなた方の先生である私が、お手本を示したのであるから、あなた方も同じようにしなさいと、主イエスはおっしゃるのです。
 正直なところ、誰もが、「そんなことを言われても、私は、主イエスと同じようにはできない」と思うでしょう。誰でも、考えたことがあると思います。「主イエスは、神の子だから、何でもできる。イエスさまだからこそ、できる。でもわたしは、人間だ。イエスさまが教えられるようになんか、できっこない。」「ペトロたちは、最初に召された主の一番弟子だ。きっとイエスさまは、特別な何かを感じられたのだろう。だから、困難があっても、試練にあっても、立ち向かっていく強さがあったんだ」「あの人は信仰に篤く、だからこそ、この奉仕をする適格者だ。私は信仰の弱いものだから、そんなことはできない」云々。もし、特別に主に用いられている人のみが、教会を形作っていったなどと言うことがあったならば、地上の教会は、とうの昔に完全に姿を消していたのではないかと思うのです。
 聖書は、なんと伝えているでしょうか。主イエスが、十字架に死なれ、葬られて、死人の中から復活され、天にお昇りになって後、使徒たち、最初のキリスト者たちはの様子は、使徒言行録や、手紙から知ることができます。主の昇天後、キリスト者たちは大きな迫害を受けました。その時、迫害をもとのもせずに、戦ったキリスト者たちだけが生き残ったのではありません。殉教するものもありましたが、迫害するものを恐れて、地下の墓地で礼拝を捧げ続けた信徒もいたのです。それとなく、仲間の家に集まって集会を続けていた信徒もいたのです。皆さんの中にも、車に魚のマークを付けている人があるでしょう。ギリシア語で魚は「イクスース」その頭文字をとると、「イエス、キリスト、神の、子、救世主)」の頭文字になり、迫害の時代、キリスト者の間で隠れたシンボルとして用いられていました。隠れていたというのだから、迫害するものが迫ってくることに恐れを抱きながらの生活だったでしょう。それでも、彼らが信仰を捨てなかったのは、困難や試練に会うことよりも、主イエスから離れることが最も恐れるべき事だったからです。驚くことに、歴史的な大迫害が各地で、いろいろな時代にあったにもかかわらず、今では、徒歩でしか行くことのできないような場所にさえ、教会は建っているのです。地上の教会が存続し続けたのは、主によって集められた人々が、聖霊の助けを信じて、主イエスのために、毎日、毎日を歩み続けた、主の御名のために歩み続けたからでしょう。
 何よりも、私どもは、福音書記者がそのことをはっきりと記していることを知っているのです。主イエスに足を洗われた者たちは、どうだったでしょうか。主の十字架の死を目の当たりにして、絶望し、人々からの迫害を恐れ、主イエスが復活されたという知らせを聴いても、それを信じることができず、戸口に鍵までかけていた閉じこもっていた弟子たちのです。その弟子たちのところに、復活の主イエスは来てくださり、「わたしはある」ということをお示しくださったのです。
 わたしどもは、しばしば主イエスに訴えます。「主よ、あなたの後をついていくのは、難儀なことです。それは険しい道です。とても、あなたのように、人を励まし、神の言葉を伝えていくことなど、弱いわたしにはできません。」そう言っている私どもに、「その弱い足を、わたしが洗ったのだ。」と主イエスは、言ってくださるのです。
 ヨハネの福音書記者は、第一三章の一節に「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と記されている言葉を無視して、一三節以下を読むことはできないでしょう。主イエスの教えが、倫理的な、道徳的な、私ども人間の間だけで終わることではないからです。主イエスが、私どもを、愛し抜かれた。それは、主イエスをお遣わしになった父なる神が、私どもを愛し抜かれたからです。だからこそ、私どもも、神を愛し、神が愛される自分を愛し、神が愛される互いを愛するのです。主イエスは、神に仕える奴隷として、父なる神の愛されたものを愛する姿勢を見せてくださったからです。

自分の影を飛び越える

自分の影を飛び越える
ルカによる福音書 第1章30-37節

鎖に繋がれていてもあなたの使徒は自由な君主であり続ける。
我らはしかし、社会の紳士淑女たち同様
縛られ、繋がれている。
さまざまな虜囚の立場からあなたは我らを解放する。
我らがあなたのため、またあなたの言葉のために自由となるように。
あなたは、我らが自分の影を飛び越えることを教え
別なものに成り変わるよう、勇気づける。
自由にしてください、そのように。

11月に教文館から刊行されたばかりの「祈り-パウロとカルヴァンと共に」R.ボーレン著、川中子義勝訳、146頁に掲載されている祈りの言葉です。スイスの神学者ボーレン先生は、この本を「祈りの修練のために」書かれました。そして、ボーレン先生が、詩人としても交友のあった川中子氏を翻訳者に指名してのものだそうですが、まさに詩編のように、声に出して読む祈りの本です。是非、手元に置いてほしい一冊です。
 12月、クリスマスシーズンに入りました。この原稿を書いているときにも、テレビのニュースでは、横浜で行われているクリスマスマーケットの様子を、「本場のクリスマスの雰囲気が味わえる」と報道しています。私どもが伝えたいのは、「本場」のクリスマスではなく「本物の」クリスマスです。
 聖書が伝えるクリスマスの物語は、ボーレン先生の祈りにあるごとく、この世のあらゆるしがらみ、私どもを襲う苦難や悲しみ、そそのかす欲望からの解放を告げています。救い主が家畜小屋で産声を上げる前から、この救い主のために、神のお召しを受けて、一人の乙女が、その夫となる男が、天使からのお告げを聞きました。また、東方の博士たちが、羊飼いたちが、年老いた司祭の夫婦のところにも、天使のお告げを聴きました。それらの人々は、皆、「この知らせは何のとこだろう」と驚き、恐れをもってきいたのです。天使は、救い主が来られる事を告げました。人々は、自分のところを訪れた良い知らせのゆえに、立ち上がり歩み始めました。
 東方の博士たちは、星に導かれて、遠いところまで、新しく王として生まれた方を拝するために旅をしました。羊飼いたちは、天使の告げた出来事をこの目で見ようと、走り出しました。マリアもヨセフも天使の告げた言葉に、自分を献げました。
みんな、「自分の影を飛び越えることを教え」られ、「別なものになりかわるように、勇気づけ」られた人々でした。クリスマスの出来事は、そのように主の言葉のために、私どもを変え、自由にするのです。
「神にできないことは何一つない。」(37節)
この天使の言葉を、私どもどれだけ深く、聴き取っているだろうか。どれだけ重く、受け止めているだろうか。どれだけ真剣に、聴き、信じているだろうか。受胎告知の記事を読む度に、問われる思いがします。問われ、怖じ惑っている私どもに、それでも天使ははっきりと告げるのです。
「神にできないことは何一つない」
この言葉のゆえに、私どもも、教えられたように、自分の影を飛び越えることができるでしょう。別なものに変わるように、主ご自身から勇気づけられるでしょう。そして、全く自由にされたものとして、日ごとにキリストのミサ(クリスマス)を献げるものにされるのです。

なぜ、徴税人は義とされたのか

なぜ、徴税人は義とされたのか
ルカによる福音書 第18章9-14節

 福音書の中には、主イエスが語られたたとえ話が収められています。どれも、おもしろいのですが、「なるほど」と思うものもあれば、「なぜ、そうなるのかなぁ」と不思議に思うものもあります。ルカによる福音書第18章に書かれているファリサイ派の人と徴税人の話はどうでしょうか。
 14節に、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と、締めくくられているので、私どもは道徳的な意味で読むことが多いと思います。
 だが、どうしてもひっかかるのは、話の展開です。主イエスは、淡々とファリサイ派の人と徴税人の祈りを並べて語りました。ファリサイ派の言い分は、もっともなことで、彼の律法の守り方は、完璧なものでした。一方の徴税人が、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、神の憐れみを請う姿勢は、当然のことだとも言えるでしょう。そして、主イエスは、何の説明もなしに「義とされて家に帰ったのは」と結論を言われたのです。ファリサイ派の人のどこが、まずかったのでしょうか。徴税人のどこに、義とされる根拠があったのでしょうか。
 私どもには、聖書を読むときの共通の癖があると思います。登場人物のことだけを考えて読んでしまう癖です。隠れた登場人物がなかなか見えないという癖があると思うのです。どの話の中にも、主なる神が関わりを持っていることを、私どもは忘れてはいないでしょうか。
 ルカ18章9節以下の話も、主なる神をその中に入れて読んでみると、この主の譬え話は、どう響くでしょうか。確かに、ファリサイ派の人の「この徴税人のような者でもないことを感謝します」という見下した言い方は、気になるところです。「私たちは、傲慢になってはいけない。いつも謙遜に振る舞わないと、人にも、神にも、嫌われてしまう。気をつけよう」と思うのも、無理からぬところです。
 では、ここに主なる神がいらっしゃること事を考えると、どうなるか。人の目に、高いか低いかは、人間同士の間のことであって、神の御前では、意味を持たなくなるのではないでしょうか。ファリサイ派の人が、うぬぼれているものとして語られているのは、彼が、神を必要とはしていないからです。主イエスが示される大切なことは、主なる神の前にひれ伏すこと-徴税人の祈りの姿-なのです。
 私ども人間は、すべての人が神の作品、被造物です。神が良いものに造ってくださり、祝福し養ってくださるものであったのに、その神の御前から離れていってしまいました。それが、私どもの根っこにある罪の問題なのです。罪人である私どもに、主は、神の御前に立ち返り、互いに赦し合い、執り成しあって生きることをお求めになりました。神の御前で身を低くするとは、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する者の姿勢なのです。
 教会は、古い時代から、カトリック教会も、プロテスタント教会も、礼拝式の中で「主よ、憐れんでください(キリエ・エレイソン)」を祈り続けてきました。武山教会の礼拝式は、リタージを用いない礼拝式なので、気づかれないかも知れませんが、聖書朗読の後の祈祷の中に、罪の悔い改めの祈りがなされています。礼拝の度ごとに、集まった信徒が、「主よ、罪人のわたしを憐れんでください」と祈り続けてきたのは、罪人である私どもは、主の憐れみによって救われ、命を与えられなければ、神を愛することも、自分を愛することも、そして隣人を愛する事もできないないからです。主なる神に対して、罪の赦しと憐れみを願い求めるとこが、礼拝においても、日常の信仰生活にとっても、大切なことだからです。教会は、このたとえ話が語る、最も重要な部分を、主日の礼拝ごとに、実践していたと言っても良いのではないでしょうか。
 雨宮慧司祭は、この箇所について、詩篇第51編18-19節の言葉をあわせて読むように勧めています。
もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。/しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
絶望の中にあるものも、喜びの中にあるものも、主の憐れみを請い求めるものを、神は退けることなく、受け入れてくださるのです。憐れみを請うものの祈りに、神は耳を傾けてくださるのです。
(教会便り2017年10月)

わたしは救いを見た

「わたしは救いを見た」
ルカによる福音書第2章22-35節

 ここに登場するシメオンは、老人の姿で描かれることの多い人です。福音書
記者は、彼の年齢については何も記していないのですが、宗教画家たちが白い
髭を蓄えた老人として描くのは、
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいま
す。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(29-30節)
の言葉から、長い人生を歩んできた老人であろうと連想されたからでしょう。
主から遣わすキリストに会うまで、あなたは決して死なないとのお告げを受け
ていたシメオンですが、やっと彼がそのキリストに出会ったことは、何よりも
シメオンにとって驚きの出来事であったとも思うのです。
 その日、シメオンは、「霊」に導かれて神殿の境内に入っていきました。そ
の日、シメオンに対して、特別のお召しがあったのがも知れません。神殿に入
った調度その時に、主イエスを抱いたヨセフとマリアが来たのです。
「あの幼子だ。あの幼子が、主がイスラエルのために、イスラエルのためばか
りでなく、全世界の救いのためにお遣わしになったキリストである」
シメオンに耳に、そのような主の言葉が聞こえたのかも知れません。
 なんと言うことでしょうか。主が指し示してくださったのは、布にくるまれ
た小さな赤ん坊ではありませんか。大人の手によって世話をされなければ、何
もできない幼子です。人間の目で見れば、海のものとも山のものともつかない
ような幼子です。もちろん、この子が成長し、大人になったときに、世の救い
主になるのだ、と理解することもできるでしょう。でも、それならば成長した
キリストとシメオンが出会った方が、キリストに対する期待は、ずっと確かな
ものになったのではないかとも考えてしまうのです。福音書記者は、シメオン
がそんな憶測をしたかどうかなどと言うことは、記しませんでした。ただ、シ
メオンが示された幼子を抱き、神をたたえたことのみを記したのです。
 時が来れば、神の言葉は現実のものとなり、そして、神にできないことは何
一つ無い。キリストに会うまでは死なないという主の言葉通りに、わたしは
今、生きて救い主を抱いている。神の言葉通りに、この幼子は、イスラエルの
救いのために、また世の救いのために遣わされたキリストだ。幼子を抱いたと
きに、シメオンは疑うのではなく、信じることしかできなかったのだと思うの
です。
 この瞬間に、シメオンの中にあった希望は、淡い希望などではなく、今まで
以上に、確かな希望となったのではないでしょうか。
 二九節から始まる「シメオンの賛歌」と呼ばれる部分は、古くから、教会の
中で夕べの祈りの時に歌われる賛美歌となりました。電気がつくようになり、
夜でも明るい部屋で過ごせるようになった現代でも、夜を過ごすのに不安を覚
えることがあります。私どもは、一人でいるときや、何かの重荷を負って一人
で夜を過ごさなければならないときなど、眠りにつくことさえ怖くなるときが
あると思います。明日の朝、目覚めることができるのだろうか。明るい朝日を
見ることができるのだろうかと、不安になる夜もあると思います。そのような
重荷、不安を取り去って、主の平安の内に、休ませてください、との祈りがこ
の歌に込められました。おそらく、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこ
の僕を安らかに去らせてくださいます。」の言葉から、夜、寝ている内に、こ
の地上に命が終わりを告げても、僕は安らかに地上を去ることができますよう
に、平安得ることができますようにとの祈りであったのでしょう。
 今、私どもは、シメオン以上に、主なる神の約束に確かな希望を抱くことが
できると思うのです。なぜならば、キリストによって、本当に、救いを見せら
れたからです。シメオンに抱かれたあの幼子、主イエス・キリストが、私ども
のために、命を勝ち取ってくださったことを確かに知らされているからです。
地上の命を終えて、眠りについても、ずっと暗い夜の中を眠り続けるのではな
く、復活の朝に、あの主イエス・キリストによって引き起こされる確かな希望
を知らされているからです。 
教会学校夏期学校開会礼拝より

わたしの魂は主を待ち望みます

わたしの魂は主を待ち望みます
詩編 第130編6節

 アドヴェントの季節は、主イエスが来てくださるのを待ち望む季節だと言われています。詩編第130編6節が、今月の御言葉として選ばれているのも、そのためでしょう。ただ、詩編第130編全体を見てみると、クリスマスを迎える楽しい雰囲気とは、いささか違うことに気がつくのです。

【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 (1~2節)

この詩は、嘆きの歌です。自らの罪の深さに気づいている詩人は、その重さに苦しんでいるのです。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。(3節)

完全なる正しさである神ご自身が、その罪を心にとめるならば、罪人であるわたしは、どうして生きていくことが出来るだろうかと嘆くのです。しかし、同時に、この主なる神が、唯一罪の赦しを宣言されるお方であることも詩人は知っています。だからこそ、この神にたいして、赦しを願い、唯一の希望を見いだしているとも言えるのです。

続きを読む

posted by 羊 at 20:00詩編

慈しみが結ぶ実

慈しみが結ぶ実
コリントの信徒への手紙への手紙2 第9章6-15節

 教会の行事予定には、「収穫感謝」と書かれた項目があります。日本では、アメリカとの関わりが強いからでしょうか収穫感謝といえば、アメリカの祝日「サンクスギビングディ」―11月第4木曜日に近い日曜日に、礼拝を行っているところが多いようです。一方カナダは、10月第2月曜日が収穫感謝の祝日に定められていますし、ドイツでは、10月第1主日に、収穫感謝の礼拝を行っています。ドイツにおける収穫感謝祭は、古い時代に教会とは関係ないところで持ち込まれ、後にそれが教会の行事とつながっていったという背景もあります。緯度の高いカナダやドイツなとでは、11月の下旬は、冬が始まり、悪天が続く時期となります。そのため季候の最もよい、つまり、本当に収穫の時期である10月に行うのでしょう。
 さて、そうなると、私どもが行事暦に則って毎年11月に献げている「収穫感謝」の礼拝は、どういう意味を持つのでしょうか。武山教会では、この日は、教会学校との合同礼拝と定めていますが、本来、教会の礼拝は、年齢や性別、国籍などに関係なく、神の御前に礼拝を献げようとする人々が集められるところです。教会学校の礼拝を指して、「子どもの礼拝」と呼ぶのは良しとしても、主日礼拝を指して「大人の礼拝」と呼ぶのは、どうなのだろうか。私どもの礼拝に対する姿勢が問われるところでしょう。そこで、「収穫感謝」が、子供たちと行う単なるイヴェントではなく、真の礼拝となるために、備えをしたいと願っています。
 今年、ドイツで多くの教会が使用している聖書日課によれば、収穫感謝の礼拝で説教されるテキストは、コリントの信徒への手紙2第9章の御言葉です。これは、エルサレムにいる信徒のために献金を促す内容になっています。惜しむことなく、献げるものは、多くの収穫を得るのだ、ということを、パウロは、農夫が種を蒔き、収穫することにたとえて語っています。

続きを読む

私たちの助け手

「私たちの助け手」
ローマの信徒への手紙 第8章26-30節

 誰でもが、子どもの頃に「大人になったら何になる」とたずねられたことがあると思います。「お花屋さんになる」「新幹線の運転手」「幼稚園の先生」「飛行機のパイロット」「正義の味方」などなど。他愛のないものまで登場しますが、ほほえましいものです。人それぞれに、小さい時の夢が実現した方もあれば、思いもかけなかった仕事に就いた方もあるでしょう。しかし、どのような職業であっても、たった一人で成り立つものは無いと思うのです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2・8)と、主なる神が言われたとおりです。私どもは、誰でも、誰かとかかわって生きています。誰かとの関わりの中で、仕事も果たされていくと言ってもいいでしょう。「家庭」というのは、社会を構成していく最小単位の共同体だと言われますが、まさに、家庭の中でも、お互いの関わりは大切になってくると思うのです。その時に、(特に、小さな子供たちにも)覚えてほしいのは、「同様に、『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8・26)です。
 誰かと共に生きるときに、必ず起きることは、共に生きているものの重荷を負うことです。小さな子どもが、火のついたように泣いているとき、どうするでしょうか。先ず、その子どもの傍らにいって、そばに屈むでしょう。転んでいたいのだと分かっていたら「痛いんだね」と声をかけるでしょう。何かにおびえている様子だったら、抱きしめて「怖かったんだね。お母さんがきたから大丈夫だよ」と声をかけるでしょう。相手が小さな子どもであっても、そうして負っている重荷―痛みや、不安、悲しみなど―を共に担っているのではないでしょうか。

続きを読む